by Chris R.(画像:Creative Commons)
■「ロマンチックなものの総量」を多くする生き方
「なぜデザインなのか」(著:原研哉 阿部雅世 対談)にこのような文章がある。
新品価格 |
もしも産業革命のようなものがなく、自分の行動範囲がすごく限定されていたとしても、自分が一生の中で生み出すロマンチックなものの総量は変わらないかもしれないと考えてみる。
この文章の中で、最も気になったのはこの部分。
自分が一生の中で生み出すロマンチックなものの総量は変わらないかもしれない
現代は、携帯電話があり、インターネットがあって、LINEのようなコミュニケーションアプリがあって、一昔前とは違い、いつでもつながることができるようになった。
ただ、よく考えてみると、こうしてテクノロジーの恩恵を受けているかのようで、実際のロマンチックなものの総量は今と昔では変わらない、むしろ少なくなっているのではないか。
これは決してノスタルジック(郷愁)に浸っているわけではない。
昔は、簡単に会ったり、つながることができなかったからこそ、相手のことを思い考える時間があったのではないか。
一つは、電話。
【今】
- 電話やメールをする時代から、TwitterやLINEのようなアプリでコミュニケーションをとる時代
- 待ち合わせで遅れてもすぐに連絡が取れる。
【昔(携帯電話のない時代)】
- 家に電話をして、親と話すというある種の通過儀礼のようなものがあったそうだ。※ちなみに、これがあることで、親は子供がどんな人と付き合いがあるのかを把握できていたそうなのだ。
- 待ち合わせの時間に来ないと連絡する方法がないので、待つしか方法がない。
便利がよくなればなるほど、相手のことを考える時間が少なくなり、自分の都合だけしか考えていないようになっているのではないだろうか。
もう一つは、SNS。
このショートムービーはスマートフォンを持っていない女性とその周りにいる人の生活を映し出している。
大事なのは今目の前にいる人のはずなのに、周りの人はムービーをとったり、写真を撮ったり、SNSをしたりして、目の前にいる人をないがしろにしているのだ。
目の前にいる人を楽しませることをしないでおいて、「現代は孤独だ」と嘆くのはなんだか矛盾している。
「錯覚の科学」(著:クリストファー・チャブリス ダニエル・シモンズ)にはこう書かれている。
新品価格 |
テクノロジーのおかげで、人は能力の限界を超えることができる。だが、どんな機械にも限界がある。それを私たちが認識して、はじめて機械は役に立つ。テクノロジーの限界を誤解すると、機械のせいで私たちは周りのものに気づきにくくなってしまう。
LINE、Facebook、Twitterといったコミュニケーションツールというテクノロジーの進歩によって、人間は遠くにいる人といつでもどこでもつながることができ、いわば能力の限界を超えることができた。
しかし、そのことによって、私たちは、旧来のコミュニケーションの周りにある、微細だけど大事なことを見逃してしまっているのかもしれない。
便利や効率を追い求める生き方よりも、もっと別の観点、今回の記事でいえば、「ロマンティックなもの」の総量を多くする生き方を考えてみるというのはどうだろうか?
【追記(2016/6/27)】
「胸がドキドキ」(THE HIGH-LOWS)
えらくもないし
りっぱでもない
わかってるのは胸のドキドキ
答えでもない本当でもない
信じてるのは胸のドキドキ
人は子供から大人になって賢くなればなるほど、道に迷ってしまう。
それは、物事を頭だけで考えてしまっているからなのかもしれません。
子供のころにわかりかけてたことが大人になってわからないまま
でも、本当はこどもの時の感覚のままに選択肢を選んでいけば、楽しめるのではないでしょうか。
ワクワクする感情を大事にして。
【追記(2016/7/4)】
「星の王子さま」(著:Antoine de Saint-Exupéry アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)より
おとなは、だれも、はじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。
All grown-ups were once children… but only few of them remember it.
子供と大人がいつからか別れてしまったような気がします。