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(2014/9/1、ライフネットジャーナルオンライン)
古典を中心にそれこそ1000冊くらいは読んでいました。その蓄積が東洋経済の記者時代には役に立った。今度はそれが枯れてきた29歳の頃に、スタンフォード大学に留学してやっぱり本を読みまくった。
<中略>
スマホが悪いのではなくて、日本語で読めるウェブのコンテンツのレベルが低いのがいけないんですよ。
大変興味深い記事ですが、いくつか疑問が浮かんできました。
1.読書してきた蓄積が枯渇するようなことが本当にあるのか?
今まで読んできた蓄積が枯渇という表現がよくわからないのですが、それは単に記憶が薄れているだけではないのでしょうか。
「海馬 脳は疲れない」(著:池谷裕二・糸井重里)にはこう書かれています。
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人間の認識は感性も含めて記憶の組み合わせでできています。
ですから、創造性も記憶力から来るということが出来ます。
新しい認識を受け入れてネットワークを綿密にしていくことが、クリエイティブな仕事というものに近づいていくヒントになるのです。
ひとつ認識のパターンが増えると、組み合わせの増え方は、統計学的には莫大な数になる。
大事なことは本を何冊読んだかというよりも、読んだ本からどれだけ多くの認識のパターンを増やしていくかなのではないでしょうか。
認識のパターンが増えていくこと、つまり、新しい視点が加わることで発想は飛躍的に増えていくのです。
2.日本語で読めるウェブのコンテンツのレベルが低いのであると仮説をたてるならば、その理由は何なのか?
その仮説に対する理由を3つほど考えてみました。
- 書き手のレベルの問題
これまでは出版社を通じて文章を書く人が選別されていたと思いますが、インターネット時代になって、その選別がされなくなった - 編集の問題
書き手が書いたものをいかに読者にわかりやすく、面白いものにするというのが編集の仕事だと思いますが、その作業がなくなることでレベルが低くなっている - 読み手のレベルの問題
読者のレベルが低くなっているから、そうしたレベルに合わせた読み物が選ばれるようになっている
もっと日本語で読めるウェブのコンテンツのレベルを引き上げようとするならば、レベルの高い作家・ライターが来てもらえるような環境を作らないといけないでしょう。
また、更に面白いものを作ろうと思った書き手は時には編集を経てウェブ上に投稿するということも必要になるでしょう。
そして、読み手のレベルが上がればこんなレベルの低い読み物は必要ないからと読まないという選択肢を取ることで、コンテンツ提供者側がレベルの高いコンテンツを提供できるように努力していくのだと思います。
「海馬 脳は疲れない」(著:池谷裕二・糸井重里)によれば、受け手がコミュニケーションを磨くのだそうです。
神経細胞のつながる鍵を握っているのは受け手であって、受け手が活発であれば、関係は築かれるのだそうです。
つまり、受け手(今回の場合は読者)が活発になれば、よりよい関係が築かれるということなのではないでしょうか。
そうした今まで本・雑誌(出版)の世界で培われてきたシステムをネット・スマホ(アプリ)時代に最適な形で落とし込むのか、それともつくり上げていくことが日本語で読めるウェブのコンテンツのレベルを引き上げていくのではないでしょうか。
そうした試みの第一歩がTwitterの共同創業者エヴァン・ウィリアズとビズ・ストーンが立ち上げた「Medium」(ミディアム)のような新しいブログ・プラットフォームなのだと思います。
おそらくスマホ時代に最適なものを提供するこの分野がこれから熱くなってくるでしょうね。
【参考記事】
- 脱・人気取り。ネットメディアはどこへ行く?ツイッター創業者のひとりが考える、次世代メディア(2014/9/2、東洋経済オンライン)