ノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文さんの制御性T細胞発見のひらめきの源




ノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文さんの制御性T細胞について、渡米当初は、免疫を抑える細胞など存在しないという考え方が学界の主流だった「逆風の時代」だったそうですが、坂口さんが存在すると考えた理由・アイデア・ひらめきはどこにあったのでしょうか?

坂口志文氏(大阪大学特任教授、京都大学名誉教授)が2025年のノーベル生理学・医学賞を受賞した業績は、免疫システムの暴走を防ぐ「制御性T細胞(Treg)」の発見です。

この細胞は、免疫細胞が自己組織を誤って攻撃するのを抑えるブレーキ役として機能し、自己免疫疾患やがん治療に応用が期待されています。

坂口氏が渡米した1980年代(主に米国でのポスドク研究期)は、免疫学界で「免疫を積極的に抑制するT細胞など存在しない」という主流の見解が支配的で、抑圧性T細胞(suppressor T cells)の概念自体が1970年代に否定された後遺症が残る「逆風の時代」でした。

それでも坂口氏がTregの存在を信じ、研究を続けた背景には、具体的な実験結果とひらめきがありました。

■坂口氏の研究の出発点:1980年代のマウス実験

坂口氏のTreg発見の原点は、1980年代初頭の日本・名古屋の愛知がんセンター研究所での研究に遡ります。

当時、坂口氏は免疫の「自己寛容」(自己組織を攻撃しない仕組み)を解明しようと、特殊なマウスモデルを使っていました。具体的には:

新生児胸腺摘出マウス(thymectomized mice)の利用:胸腺はT細胞が成熟する器官です。新生児期に胸腺を摘出すると、T細胞が十分に作られず、免疫不全になるはずでした。しかし、このマウスでは逆に、自己免疫疾患(例:甲状腺炎や皮膚炎)が多発するという「矛盾した現象」が観察されました。

同僚の実験結果がきっかけ:この矛盾は、坂口氏の同僚(研究グループ内の他のメンバー)が行った予備実験で明らかになりました。彼らは、胸腺摘出マウスに正常マウスのT細胞を移植すると、自己免疫疾患が予防されることを確認しましたが、詳細なメカニズムは不明でした。坂口氏はこの「予期せぬ結果」に着目し、「免疫不全で病気が起きるはずなのに、なぜ自己免疫が起きるのか?」という疑問を抱きました。これが、坂口氏の「ひらめき」の起点です。ノーベル委員会の公式解説でも、「同僚の矛盾した実験結果にインスパイアされた」と記述されています。

この観察から、坂口氏は「免疫システムには、攻撃的なT細胞を積極的に抑える『ブレーキ役』の細胞が存在するはずだ」と推測しました。当時の主流理論(中央耐性:胸腺で有害T細胞を除去するだけ)では説明がつかないため、周辺耐性(peripheral tolerance:体外で免疫を制御する仕組み)の可能性を追求しました。これは、単なる仮説ではなく、実験データに基づく「現象論的洞察」でした。

■アイデアの深化:ブレーキ役T細胞の特定(1985年)

サブセット除去実験の着想:坂口氏は、正常マウスのCD4+ T細胞(ヘルパーT細胞の主役)を、表面マーカーの発現レベルで細分化(サブセット)し、それぞれを胸腺欠損マウスに移植する実験を設計しました。目的は、「どのサブセットが自己免疫を防いでいるか」を特定することです。結果:CD5hi(CD5高発現)CD4+ T細胞という特定のグループを除去・移植すると、胸腺欠損マウスで多様な自己免疫疾患(腸炎、皮膚炎など)が誘発されました。一方、そのグループを移植すると疾患が予防されました。

ひらめきの本質:ここで坂口氏のアイデアは、「免疫攻撃細胞(effector T cells)は正常な体に存在するが、それを抑える抑制性サブセット(後のTreg)も共存している」というものです。これは、1985年の論文(Sakaguchi et al., J Immunol)で初めて報告され、Tregの「機能的証拠」を示しました。坂口氏はインタビューで、「シンプルな除去・移植実験で、現象を直接観察しただけ」と振り返っていますが、当時の逆風下でこの発想は革新的でした。なぜなら、抑圧性T細胞の概念が「科学的でない」と退けられていたからです。

■渡米当初の逆風と持続の理由:1990年代の証明へ

渡米後の状況(1980年代後半~1990年代初頭):坂口氏は1980年代に米国(例:スタンフォード大学など)でポスドクとして研究を続けましたが、学界の主流は「抑制T細胞は存在しない、すべてはクローン除去や無反応で説明可能」というものでした。論文投稿も厳しく、資金調達も難航しました。しかし、坂口氏は上記のマウス実験データを基に、「現象が正しければ、分子マーカーを探せば証明できる」と信じ、粘り強く続けました。

決定的ひらめきの実現(1995年):CD25(IL-2受容体のα鎖)をTregのマーカーとして特定。CD25+ CD4+ T細胞を除去すると自己免疫が起き、移植すると抑制されることを証明しました。この論文(Sakaguchi et al., J Immunol 1995)は、Tregの「存在証明」となり、2000年に「Regulatory T cell」という名称が定着。後にFOXP3遺伝子(2003年)がTregのマスター遺伝子と判明し、理論が完成しました。

■なぜこのアイデアが生まれたのか? 坂口氏の研究哲学

坂口氏のひらめきは、「矛盾を放置せず、シンプルな実験で追及する」姿勢にありました。インタビュー(中日新聞2016年再録)では、「胸腺摘出マウスの予期せぬ病気が、ブレーキ役の存在を確信させた」と述べています。また、ノーベル賞関連の解説書(『免疫の守護者 制御性T細胞とはなにか』)でも、幼少期の科学書や哲学的背景が「免疫のバランス」を考える基盤になったと語っています。この発見は、がん免疫療法(Tregを減らして攻撃を強化)や自己免疫疾患治療(Tregを増やす)に応用され、現在200以上の臨床試験が進んでいます。

■感想

この坂口さんの研究に対する考え方で興味深いのが、「矛盾した実験結果」を実験にエラーがあったわけではなくて、新たな現象を示しているサインと読み取ったことにあります。

人はそれを「直感」とか「直観」と表現するかもしれません。

しかし、坂口さんは既存の常識をベースにした「実験結果のエラー」だと判断するのではなく、実験結果こそが事実であって、本来ならばその事実に基づいた新たなメカニズムがあるのではないかと考えたことがすごいのです。

🧩 1. 坂口志文の発想を生んだ「矛盾への感受性」

坂口氏が渡米前から抱いた直感の起点は、**「胸腺を取ったマウスが免疫不全ではなく自己免疫を起こす」**という逆説的な観察でした。
普通の科学者なら「実験系のエラー」として片付けるところを、坂口氏は「現象のメッセージ」として読み取った。

つまり、「免疫が足りないのに攻撃が起きる」ことは、
「免疫には攻撃だけでなく抑制の層もある」という直感を生んだ。

ここに坂口氏の発想の独自性があります。
これは科学哲学者トマス・クーンのいう「パラダイム転換の萌芽」に似ています。
旧理論(免疫=防御機構)では説明できない観察を、「異常事例」としてではなく「新しい秩序の兆し」として受け止めた点です。


🧠 2. 「抑制」の存在を想像できた背景:免疫を“均衡系”として捉える感性

坂口氏は免疫を「攻撃 vs 抑制」のバランスシステムとして直感的に捉えていました。
この発想の根底には、生理学的・哲学的な「動的均衡」への理解があったと考えられます。

  • 多くの研究者は「免疫=兵士」「異物=敵」という戦争的メタファーに囚われていた。

  • 坂口氏はそれを離れ、「免疫=秩序の維持」「敵も味方も行き過ぎれば病になる」という生態系的視点を持っていた。

この“免疫=バランス”という見方は、20世紀の免疫学が「攻撃のメカニズム」に傾倒していた時代においては異端でした。
しかし坂口氏にとっては自然な帰結だった。
彼は後にこう語っています:

「免疫は外敵と戦うだけでなく、自分を壊さないための装置でもある。」

このように、免疫を「闘争」ではなく「調和」として見る哲学的視座が、Treg発見を導いた根底にあります。


🔬 3. 「実験の美学」:複雑さを排して本質を見抜く

坂口氏の研究の特徴は、極めてシンプルな実験設計にあります。
1980年代の生物学では、新しい分子や経路を次々と見つけることが主流でした。
しかし坂口氏は「サブセットを取る・戻す」という最小限の操作で、現象そのものを直接観察しました。

「現象をできるだけ単純な形で再現できれば、それが真実に近い。」

この方法論は、物理学者リチャード・ファインマンの「自然は単純だ」という信念に通じます。
つまり坂口氏の“ひらめき”は直感的なものではなく、「シンプルな構造で説明できる現象こそ本物だ」という科学哲学的美意識に基づいていたと考えられます。


🧩 4. 「逆風の中で信じる力」:信念の源は“現象”だった

1980〜90年代は、suppressor T細胞概念が否定された直後。
「抑制細胞を信じる」こと自体が、学界的にはキャリアを失うリスクを伴いました。
それでも坂口氏が研究を続けられた理由は、信念ではなく現象への確信にありました。

「データがそう言っている限り、理論が間違っているのは理論の方だ。」

この姿勢は、フランシス・クリックやジェーン・グドールのように、「常識よりも観察を信じる」科学者の系譜に連なります。
坂口氏の中では、“信念”ではなく“事実への誠実さ”が推進力だったといえます。


🧭 5. まとめ:坂口志文の「ひらめきの構造」

観点 内容 現代科学への教訓
🔍 出発点 胸腺摘出マウスの矛盾した現象に着目 データの「例外」にこそ本質が潜む
⚖️ 発想の枠組み 免疫を攻撃ではなく“均衡系”と見る 自然を「戦い」ではなく「調和」で捉える視点
🧪 方法論 シンプルな除去・移植実験で本質を抽出 技術よりも構造的理解を優先
💡 哲学的態度 現象への誠実さ、矛盾を手がかりにする 「理論より現象」への忠実さ
🕊️ 時代への逆行 主流が「抑制細胞など存在しない」時代 パラダイム転換は孤独の中で起きる

もし一言で坂口氏の発想を表すなら、こう言えるでしょう:

「免疫とは、戦う力ではなく、戦いを終わらせる力である。」

坂口氏がその「終わらせる力」を自然の中に見出したことこそ、制御性T細胞発見の本質的な“ひらめき”でした。