どんなに面白いことであっても、その面白さの「見方の入り口(解説書)」を付けないと、相手には伝わらない




Watching the gorillas

by Mary(画像:Creative Commons)

自分が面白いと思ったことを人にどうしたら面白いと思ってもらうことができるかということについて考えています。

例えば、自分がコレ面白い!と思って話したり書いたりしてみても、その反応はイマイチだなーと思うことが多々あります。

それは、その話自体が面白くないのか、それとも、伝え方(書き方・話し方)に問題があるのか、はわかりません。

そんなことを考えていると、周防正行監督と伊丹十三監督のエピソードの話を目にしました。

テレビ的ってなんだ

(2009/6/15、ほぼ日刊イトイ新聞)

浦谷さんていうテレビの人とやって、

“テレビ的である”っていうのはどういうことか、

教えてもらったんです。

要するにね、

テレビって面白いことがあったときに、

それをいきなり見せちゃだめなんですよ。

(中略)

ここ見せたいっていう面白いことがあったら、

先に言えって。

「いいですか、

山崎努さんがこんなことをしますよ。

とても面白いですよ。

いいですか、見てください」って見せる。

それで「ね、面白かったでしょ」って念を押す。

これがテレビだって言われて。

ーーー武藤起一著『映画愛』(大栄出版)p172-173

自分の頭の中では理解できて、それがどんなに面白いことであっても、その面白さの見方の入り口(解説書)を付けないと、相手には伝わらないということです。

先日放送された「ワイドナショー」で「努力」について松本人志さんが言っていたことはこのことにつながってくるのではないかなと思います。

僕らって、努力じゃない。

どんどんレベルアップしていく仕事ではないような気がする。

そもそも、小学校くらいのころから、基本的にレベルはあんまり変わってなくて、自分達は面白いと思っているし、この世界に入って努力して売れるんじゃなくて、自分達の面白いことをいっぱいの人に知ってもらったらもうそれが売れるんじゃないかって考え方のような気がする。

山の頂上に登るっていうんじゃなくて、山の頂上にいることを知ってもらいたいみたいな感覚がぼくはあるような気がする。

面白いことはすでに自分の目の前にあるんだけど、それは自分には見えていて、他の人には見えていない。

「コレが面白いんですよ」という見方・視点があることを、手を変え品を変え伝えていくことができれば、自然と自分の面白さが伝わるということですね。

自分の話が面白いのかどうかは、まず面白さの見方の入り口をつけて相手に伝わるようにするのが前提で、そのあと内容が面白いのかどうかを判断してもらうというのが順序なのではないかという結論になりました。

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P.S.

これは関根さん流の表現なんでしょうけど、「こういうことが面白い」という視点を示すと、「自分はこのことを面白いと思っていたけど、周りにはそんな人はいないから、面白がっていいのかな」と思っていた人が、「これって面白がっていいんだ」と思うようになったり、面白さの見方の入り口を知ることで、自分の中の新しい才能が見つかるというケースがあるんだと思います。 だからこそ、大事なのは、いろんな視点を持って物事を見られる人なのではないかと思うのです。

以前千鳥の二人が「笑神様は突然に」で内村さんにハマったのが大きかったといっていたことを思い出します。

内村さんが笑ったことでこの二人で笑っていいんだということになったんだと。