by Irina Patrascu(画像:Creative Commons)
(2007/3/7、ほぼ日刊イトイ新聞おとなの小論文)
先日、
店に入ったとたん
昔好きでよく聞いていた音楽が流れてきた。急に涙があふれてきて
止めようがない。
人まえだったからかっこわるくてしょうがない。
しばし顔を伏せた。「自分は悲しかったんだ」とそのとき気づいた。
ずっとのどがつっかえたような感じはあったけど、
とりたてて泣いたり騒いだりするでもなく、
ただ、「なんとなく元気が出ない」でいた。その感情が「悲しい」と
言葉になると、「そうそう」、
としっくりくる自分がいた。
大人になったからなのか、自分の気持ちに鈍感になってしまったのか、いつもはその感情をごまかしているのか、ただ気忙しくしているだけなのかはわからないけど、ふとした時に感情があふれてしまう時がある。
時々、相手の変化に敏感な人から、「何かいつもと違いますよね」と一言声をかけられる。
本人はいつもと同じつもりでいる。
でも、実際は違っているのだ。
本人にも知らないうちに何かがたまっているのだ。
人からすればあふれだしてきているのに、本人には気づかないということもあるのだ。
だからこそ、時には自分の心にたまった澱のようなものを「出す」ことが大事なんだと思う。
ふと、音楽にふれて、
あるいは、ふと人との関わりの中で、
自分の中に、思いもよらぬものが「たまっていた」
ことに気づかされることがある。
人と何かを通じて関わりあうことによって、その漠然としたモヤモヤしていた何かに名前がついたとき、人はようやくその存在に気付くのだろう。
そして、その存在に気付くことができれば、ほぼ解決したも同じだ。
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P.S.
でも、自分が楽になりたいからと言って、安易に感情を出せばいいというわけではない。
そういうときには、自分にとって身近で、抵抗できない相手を選んで傷つけてしまうことがあるからだ。
私だったら、身近で、わかりやすい対象、
しかも自分に抵抗できない対象をみつけて。
たとえば親にあたるなどして。
まちがった「出し方」をしてしまい、
ますます、抱えきれないものをためこむ回路に
はまっていったろう。実際、いまも私は、弱いために、
そうしたまちがった「出し方」をして、
人を傷つけているように思う。
たとえば、片思いの振り向いてくれない相手にひどい言葉で傷つけることで自分の気持ちに区切りをつけようとすること。
たとえば、パートナーが自分の気持ちに気付いてくれないからといって、間違った方法で大事な人を傷つけてしまうようなこと。
自分が楽になるためなら、自分の大事な人を傷つけてもいいと思う人は弱い人。
本当に強い人というのは、感情を出すことができないとき、その手段がわからない時には、それを自分の中にため込むことができるひとなのかもしれない。
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