「物質からの解放」(猪子寿之)と「物質性を突き詰める」(隈研吾)という相反するように見える考え方に共通している点とは?

隈研吾 Kengo Kuma - The One南園 風簷裝置藝術 03

by 準建築人手札網站 Forgemind ArchiMedia(画像:Creative Commons)




■「物質からの解放」(猪子寿之)と「物質性を突き詰める」(隈研吾)という相反するように見える考え方に共通している点とは?

2016年5月21日放送のサワコの朝(TBS系)で建築家・隈研吾さんが建築の物質性について語っていました。

先日放送されたアナザースカイで猪子寿之さんは「物質からの解放(物質から解放された方が自由になれる気がする)」について語っており、二人は相反する考えを持っているように感じました。

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そこで、物質性とサイバースペース「かたちの時代の終わり」|東西アスファルト事業協同組合講演会で隈研吾さんの文章を参考に考えてみたいと思います。

物質性とサイバースペース『かたちの時代の終わり』|東西アスファルト事業協同組合で紹介されている文章から考えてみたいと思います。

猪子寿之さんのように物質の解放を考える人もいれば、隈研吾さんのように物質性を突き詰めていく人もいます。

物質に関して互いが相反する考えを持っているようで、実は同じなのかもしれません。

それは、デジタルアートも、建築も、与えてくれる体験が意識を変えてくれるものであるという視点では共通しているからです。

デジタルアートを通じて、建築を通じて、人々にどんな体験をしてもらうか、意識を変えるきっかけにしてもらうか、感覚に訴えかけるという点では近いものを感じます。

物質性とサイバースペース『かたちの時代の終わり』で隈研吾さんはこう語っています。

物質性もサイバースペースも、どちらも僕にとっては、とても魅力的です。コンピュータだけが表現できる空間の世界、というのも魅力的だし、それからもう一方で、物質だけで表現し得る素材の世界というのもたいへんに魅力的だなと感じています。そのふたつともが魅力的なのはなぜだろうか。これが解けたら、おそらく二十一世紀がどういう世紀になるか、二十一世紀の建築がどのような建築になるかという大きな問題も解けるのではないか。それをなんとか解きたいのですが、そのヒントのひとつになるのが、もはや「かたちの時代」ではない、ということだと思います。

私自身も猪子寿之さんの物質からの解放という考えに共感しながらも、隈研吾さんの物質や素材の考えに魅力を感じています。

日本人は昔から素材に関する感覚に対してこだわりがあるように思います。

「なぜデザインなのか 原研哉 阿部雅世 対談」によれば、日本語には「ふわふわ」とか、触り心地を表現するオノマトペがたくさんありますが、ヨーロッパの言葉、もしくはインターナショナル・イングリッシュのような共通語にはそういうものがほとんどないそうです。

なぜデザインなのか。

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これは日本ならではの特徴なのではないでしょうか?

だからこそ、猪子寿之さんの物質からの解放という考えに共感しながらも、隈研吾さんの物質や素材の考えに魅力を感じる自分がいるのだと思います。

だからといって、どちらかの考えに偏る必要なんてなくて、そうした考えの間にある「あいまいさ」を楽しめばいいと思う。

私たちの心には、「あいまいさ」・「矛盾」が備わっています。

どんなに論理的に考えても、私たちの心には「あいまいさ」や「矛盾」があるため、時にはなぜだか論理的な考えとは反する決断をしてしまうものです。

それは、私たちがこれまで見て読んで聞いてきた物語(神話や昔話、ことわざ)や自分自身が経験してきたのことを考えればわかりますよね。

曖昧さがあることによって、時にはどんな逆境の場面でも努力をしようと思えますし、苦しい時には自分を慰める逃げ道にもなってくれるのです。

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と話はそれてしまいましたが、結局お二人が語ったことがこうして私が考えるきっかけとなったのですから、与えてくれる体験が意識を変えてくれるという二人の考えは成功したことになります。







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