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自分を解放して、自分を受け入れると、相手ともっと自然に触れ合えるようになる!?

Just for laugh

by Aimanness Photography(画像:Creative Commons)




タモリさんから始まった落語を変なものにはできません。

(2015/8/19、チケットぴあ)

「演劇の世界では”自分を解放する”という稽古方法があるそうですけど、うちの師匠についていたら解放しないほうが難しかった。自分の世界に閉じこもっていたら『なにをカッコつけてんねん!』ですから(笑)。

<中略>

俳優であろうが落語家であろうが、演じる側の日常が芝居に出るものと僕は思っているんです。そういう意味では、自分を解放することが日常だった師匠との日々から、自然と演じることの本質を教えてもらっていた気がしています」

自分を解放するということをトレーニングすることで、自分を再発見することにつながるのではないでしょうか。

「ダメな自分を救う本」(著:石井裕之)にはこう書かれています。

それと、自分の中の感情の流れを止めないこと。例えば、人の前で泣けない男の子や、長い間怒ったことのない女の子って多いと思います。悲しい時に泣いて、腹が立った時には怒らないと。人前で泣くことは恥ずかしいことじゃない。むしろそれだけ相手にオープンだってこと。

最近のデータによれば、97%の大学生が場の空気を読んで、自分の意見を言わないことがある!?そうですが、感情を出す(感情の流れを止めない)というのは決して恥ずかしいことではなく、それだけ相手に対してオープンであるということを示しています。

相手のことばかり考えるあまり、自分の感情を伝えられないという人は、一見相手のことを思いやっているようで、自分のことを大事にしておらず、相手とは本当の意味で触れ合っていないのもしれません。

自分を解放することによって、自分が知らなかった自分(自分の素)を見つけ、その自分を受け入れることができれば、もっと自然と相手と触れ合うことができるのではないでしょうか。




人生を軽やかに生きる|自分がオープンになるからこそ相手もオープンになれる

自分探しはしなくていい。本当の自分は、「人生を楽しむ」ことで見えてくる- ロバート・ハリス

(2014/6/8、旅ラボ)

人生の重みって、どれだけいろんな体験して、失敗し、悲しみに涙し、運命に叫び声をあげ、その上でどれだけ今を軽やかに生きているかだと思うんです。

「人生って大変だよ」という人よりも「人生って楽しいもんだよ」という人のほうが憧れます。

たとえ、その人がどんなに大変な人生経験をしていたとしても、それでいてもなお人生って面白いといえるかどうかがその人の器を感じさせます。

苦しく悲しい出来事も自分で面白い話に変えちゃうくらいにしてしまったほうがいいですよね。

正直言って落語に触れた経験といえば、NHKの「ちりとてちん」であったり、TBSの「タイガー&ドラゴン」であったりと、ドラマを通じてしか触れたことがありません。

ただ、落語の世界というのは、どんなダメな人間も受け入れてくれる世界だという認識はあります。

「人間の業を肯定してくれるのは落語だけだよ。一生懸命やれって言わないでしょ。一生懸命やったけど、やっぱり駄目だったってね」…「立川談志さん死去」の報に接して思い出した、あの至言。

(2011/11/24、病床軟弱)

「人間の業を肯定してくれるのは落語だけだよ。一生懸命やれって言わないでしょ。一生懸命やったけど、やっぱり駄目だったってね。人生って失敗と恥ずかしさの連続よ。そう言わないと、俺の所業も説明がつかないけどね。だから疲れたら落語を聞いているのがいいよ。落語っていうのは慰めてくれるから」

立川談志さんは「落語とは、人間の業の肯定である」といったそうです。

人生には成功もあって、失敗もあって、ほとんどの人は一生懸命努力しても失敗続きの人生かもしれません。

落語というのは、そんな人の心を楽にしてくれるものだと思います。

自分を解放してみて、離れていく人もいるかもしれません。

だけど、そんな解放した自分を面白いと思ってくれる人もいると思います。

そんな自分を受け入れると、もっと楽しい人生になるんじゃないでしょうか。

P.S.

鶴瓶さんのこの言葉も素敵です。

でも実は、場がシラけるという経験も積めたのが大きかったんです。若い頃なんて、シラけるのは恥ずかしい。でも、その感覚から目をそむけずに『こういう日もあるよ』と自分の恥ずかしさを認めてあげる。

「自分の恥ずかしさをも認めてあげる」からこそ、周りの人がどんなに恥ずかしい思いをしたとしても、一緒に笑ってあげられるのではないでしょうか。







【関連記事】

本質主義には2つのアプローチの仕方がある!?|片付けコンサルタント近藤麻理恵と建築家ヴィンセント・ヴァン・ドイセン

Large Order Of Toast

by JD Hancock(画像:Creative Commons)




Kinfolk japan edition volume nineでは、「本質主義」について取り上げられていました。

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本質主義にもいろいろな受け取り方があるものだと感じたので、このブログでも取り上げてみたいと思います。

ベルギー出身の建築家/デザイナーであるヴィンセント・ヴァン・ドイセンさんにとっての本質主義とは

無駄を取り除き核心に触れ、余分な部分をそぎ落とし、真の姿、シンプルさや純粋さを取り戻すことです。

と語っています。


参考画像:Pinterest

また、世界的ベストセラーとなった「人生がときめく片付けの魔法」の著者であり、片付けコンサルタントである近藤麻理恵さんの本質主義とは

その人が本当にときめくものだけを持ち、それらを大切にする生き方をするということです。

と語っています。

同じ本質主義であっても、アプローチの仕方が違っているように感じます。

ヴィンセントさんのアプローチの仕方は、無駄なものをそぎ落として残ったものが大事なものという考え方であり、近藤さんのアプローチの仕方は、ときめくものを残す=大事なものという考え方です。

文章の受け取り方や言葉遊びのようにも思いますが、自分にとって本当に大事なものを自分が能動的に選ぶかそうでないかは大きく違うように思えます。

あなたはどちらのタイプの本質主義でしょうか?

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SNSを利用して自分はそこから何を得ているのだろうか?

Instagram and other Social Media Apps

by Jason Howie(画像:Creative Commons)




アクセスするとSNSがいかに「のぞき趣味」であるかを突きつけられるサイト

(2015/10/12、WIRED)

「この作品を観ると、『で、これを観た経験から自分は何かを得たのか?』という疑問に行き着きます」とハリスは言う。「これはわたし自身がインターネットを利用しているときによく投げかける疑問です。『で、自分はそこから何を得たんだ?』ってね」

ジョナサン・ハリスとグレッグ・ホックマスが問いかけていることはこういうことではないでしょうか。

私たちはインターネット(この記事ではSNS)を利用していますが、その大半の時間を他人の生活をのぞき見する時間に費やしており、そのことから私たちは何を得ているのか、ということです。

FACEBOOKやりすぎると脳が退化してしまう?で紹介したアメリカのタフツ大学の認知神経科学者メアリーアン・ウルフ氏によれば、ある情報について深く考えるには、時間がかかるものですが、ネット上では、さっさと気晴らしから気晴らしへと飛んでいくことができるとあります。

深く考えることを忘れて、知らず知らずのうちに、暇つぶし・時間つぶしをしてしまうのです。

確かに、SNSにはメリットがあります。

遠く離れた昔の友人と再度つながる機会を得たという人もいるのではないでしょうか。

しかし、使い方を間違えると、自分にとっての貴重な時間を失わせてしまうのです。

SNSはあくまでも道具。

自分なりの距離感でその道具をうまく使いこなすことが重要です。







【関連記事】

「失敗はあなたがチャレンジしている証拠」|”Mistakes are proof that you are trying.”


参考画像:Pinterest




レギーナ・ドゥーガン 「マッハ20のグライダーからハチドリロボットまで」

TED TALKにおいて、DARPA(米国防高等研究計画局)局長レギーナ・ドゥーガン(REGINA DUGAN)は、次の言葉を教えてくれています。

「絶対失敗しないと分かっていたとしたら、どんなことに挑戦しようとするだろう?」

失敗への恐怖を取り除くとき 不可能が突然 可能になるからです

クレマンソーは言っています 「人生は失敗したときに面白くなる 失敗は 自分を越えたというしるしだからだ」

失敗を恐れることなく、チャレンジし続けてきた誰かがいるからこそ、私たちは様々なテクノロジーの恩恵を受けています。

例えば、空飛ぶ飛行機。

当時は鳥をイメージして羽ばたきによって飛ぶ機械を考えていることが動画からわかります。

1895年ケルヴィン卿は空気よりも重い飛行機械は不可能であると断言し、1903年10月空気力学の専門家の間の意見は1千万年後だったら空飛ぶ機械も作れるかもしれないというものだったそうです。

しかし、1千万年後だったら可能といわれていたものが、多くの人が空飛ぶ機械を作ることに何度もチャレンジした結果、1903年12月17日にオーヴィル・ライトは飛行時間はたったの12秒、距離は40メートルですが、飛ぶことに成功しました。

レギーナ・ドゥーガンはそのほかの例として、マッハ20のグライダーやハチドリロボット(ハミングバード)、ヤモリの足の裏の構造を基にしたマジックテープのアイデア、ナノスケールで作ったマシン、発泡スチロールよりも軽い金属で作る車のアイデア、思考で発生する脳の電気パルスの研究(思考でロボットの義手をコントロール)、植物のタバコで作ったワクチン(タバコは何百万回分のワクチンを従来の数ヶ月ではなく数週間で作れる)などの科学者や技術者が取り組んだ興味深い例を紹介してくれています。

これらのものは誰かがやってくれるだろうと思っていてはできなかったものです。

科学者や技術者が既存のものの見方に挑戦し、失敗を恐れず不可能に挑んだからこそ、できたものなのです。

”Mistakes are proof that you are trying.”

「失敗はあなたがチャレンジしている証拠」

失敗したことをくよくよする人もいるのではないでしょうか。

しかし、その失敗を恥じる必要はありません。

あなたは、少なくとも何か一つチャレンジをしているのです。

そもそもそれが失敗とは限りません。

ただ、この方法では成功しないという結果がわかっただけなのであって、失敗ではないのです。

何もチャレンジをしない人はその方法が間違った方法ということさえも分からないのです。

あなたが憧れている人も成功者も最初から憧れた存在であったわけではなく、成功していたわけではないのです。

一つ一つチャレンジをしていって、失敗を積み重ねていった結果、今のステージに上がっていったのです。

今は苦しいかもしれません。

でもきっとこれが笑い話になるときが来るでしょう。

いや笑い話にしないといけません。

笑い話をしているあなたの姿を見て、きっとあなたに憧れる人がでてくることでしょう。

最後に、ニーチェの名言を引用します。

いつか空の飛び方を

知りたいと思っている者は、

まず立ちあがり、

歩き、走り、登り、踊ることを

学ばなければならない。

その過程を飛ばして、

飛ぶことはできないのだ。







世界で最も非言語で生活できる、居心地の良い都市になれば、ロマンチックだ!

Paris - le 29 decembre 2011

by Patrick Nouhailler(画像:Creative Commons)




■世界で最も非言語で生活できる、居心地の良い都市になれば、ロマンチックだ!

グローバル化は、英語化じゃなくて、非言語化!──日本、アジア、そして21世紀

(2013/10/7、GQ)

この間、とあるアジアの国に行った時に、あるアメリカ人が面白いことを言っていた。日本で半年間生活していたのだけど、いっさい日本語がわからなくても、全く生活に困らなかった。今住んでいるこの国だと、この国の言葉がわからないと生活に非常に困るというのだ。

日本の街は、海外の人が日本語をしゃべれなくても生活できるのだそうだ。

その理由は、日本の街は非言語な表現であふれていることが理由に挙げられる。

もしかしたら、日本は、非言語文化が発達していて、それは、世界の中で、非常に、競争力があるかもしれないのだ。歴史を紐解けば、能や、絵巻物語があったし、そして、マンガがある。非常に非言語な文化である。そして、非言語的な文化が世界ではうけている。そう、非言語な表現は、実は日本の強みなのだ。そして、気付いていなかったけれど、非言語な文化が強くあったため、気がついたら、街が、言葉がわからなくても、生活しやすいという非言語な街に発達したのではないかと思う。

現代の流れは、英語公用語化に進んでいたり、外国語を学ぼうという流れになっているが、もしかすると、非言語な表現を特化させた方が街としては住みやすい街になるのかもしれない。

文字をなくすといえば、知的能力が低下するという意見もあるかもしれない。

「アースダイバー」(著:中沢新一)にはこう書かれている。

アースダイバー

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今日わたしたちの用いる知的能力の量は過去よりも少ないとも多いとも言えます。それに、昔と全く同種の能力を用いているわけでもありません。たとえば、感覚的知覚の利用は明らかに少なくなっています。

無文字民族は、自分たちの環境と資源の全てについて、途方もなく正確な知識を持っています。

文字を持たない民族が文字を持つ民族よりも知的能力の量が少ないわけではなく、持っている知識の種類が違うのだ。

無文字民族は、自らの周りにある自然に関する知識や感覚的知覚が豊富なのである。

第16回 なんで、誤解していたんだろう?

(2006/1/4、ほぼ日刊イトイ新聞)

あーとかうーとかじゃなくて、
言語も、深いところでは
今と同じ構造を持っているんです。
ボキャブラリーもかなり豊富だったし、
ことに自然界のものや、
動物に関するボキャブラリーは、
ぼくらよりもっと豊かだったと思います。

役に立つ動物や植物についての知識も豊富だし、
社会構造だってかなり発達していました。

縄文時代の人より近代の人のほうが優れているというのは誤解なのだ。

進化論によって、今が一番いいと思いこまされているのかもしれない。

だからこそ、文字にあふれる街を目指すよりも、無文字民族のような言葉を使わないコミュニケーションを中心とした街を目指すというアプローチも面白い。

世界でもっとも非言語で生活できる都市こそが、世界中の人々にとって、とても居心地の良い都市になるならば、猪子寿之さんの言葉を借りれば、

圧倒的にずっと、ずっと、ずっと、ロマンチックだ!!

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P.S.

タモリにとって「言葉」とは何か

(2013/5/7、ガジェット通信)

「どうしても知りたいのは、なぜ、コトバに挑戦したかという一点に尽きる」と迫る松岡に、タモリはこう語った。

「かんたんに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう」「何かものを見て、コトバにしたときは、もう知りたいものから離れている」「コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりコトバです。ものを知るには、コトバでしかないということを何とか打破せんといかんと使命に燃えましてね」(同)

言葉があるからこそ、よく見えないことがある。

言葉をなくすことで、本当のことが見えてくるのかもしれない。